Nas(ナズ)は、ニューヨーク・クイーンズのクイーンズブリッジ団地から現れた、East Coastヒップホップを代表するラッパーです。20歳で発表したデビュー作『Illmatic』は、いまも「史上最高のヒップホップ・アルバム」の候補として名前が挙がり続けています。
武器は、圧倒的に緻密な言葉です。団地の日常を、映画のワンシーンのような密度で描き切る描写力。多音節の内部韻を織り込みながら、物語として成立させてしまう構成力。派手なフックや声の強さではなく、書く力そのもので30年以上第一線に立ち続けてきたラッパーです。
この記事では、Nasがどんなアーティストなのかを整理したうえで、主要なアルバムを発表順にたどりながら、それぞれの代表曲を1曲ずつ紹介していきます。名前は知っているけれど何から聴けばいいか分からない、という方に向けた内容です。
Nas(ナズ)とは?
クイーンズブリッジから、史上最高のデビュー作へ
Nasは1973年9月14日、ニューヨーク・ブルックリン生まれ。本名はナシール・ビン・オル・ダラ・ジョーンズです。「ナシール」はアラビア語で「助ける者、守る者」を意味し、「ビン」は「〜の息子」を表します。父はミシシッピ州出身のジャズ/ブルース・ミュージシャン、オル・ダラ。母ファニー・アンは郵便局員でした。
幼いころに家族でクイーンズのロング・アイランド・シティにあるクイーンズブリッジ団地へ移り、隣人からレコードを聴かされたことでヒップホップに惹かれていきます。10代のころはトランペットを吹き、自分でライムを書き始めました。最初は「Kid Wave」、次に「Nasty Nas」と名乗ります。
DJを務めたのは、上の階に住む親友のウィリー「イル・ウィル」グレアム。しかし1992年5月23日、グレアムはクイーンズブリッジで銃撃され亡くなります。同じ夜にNasの弟も撃たれ、こちらは一命を取り留めました。Nasはのちに、この出来事を自分にとっての「目覚まし」だったと語っています。
音源としてのデビューは1991年、Large Professorが率いるMain Sourceの曲「Live at the Barbeque」への客演でした。「Rakimの再来」と評され、シーンの注目を一気に集めます。1992年、3rd Bassを解散したMC Serchの手引きでColumbia Recordsと契約。そして1994年4月19日、『Illmatic』が世に出ます。
その後は、大衆性を取りに行った『It Was Written』(1996年)で全米1位を獲得し、1999年の2作で「商業的になりすぎた」と批判を受け、Jay-Zとの抗争を経て『Stillmatic』(2001年)で評価を立て直す——という激しい起伏をたどります。近年はプロデューサーのHit-Boyと組んだ『King’s Disease』シリーズと『Magic』シリーズで、キャリア最良の再評価を受けました。
プロフィール
| 本名 | ナシール・ビン・オル・ダラ・ジョーンズ |
| 生年月日 | 1973年9月14日 |
| 出身地 | アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン(育ちはクイーンズのクイーンズブリッジ団地) |
| ジャンル | ヒップホップ(East Coastヒップホップ) |
| 別名 | Nasty Nas、Escobar、God’s Son |
| デビュー | 1991年(Main Source「Live at the Barbeque」に客演)/1994年(1st『Illmatic』) |
| 主なレーベル | Columbia、Ill Will、Def Jam、Mass Appeal |
「Escobar」は『It Was Written』期のマフィオソ路線での名義、「God’s Son」は2002年のアルバム名でもある呼び名です。作品ごとに立ち位置を変えてきたことが、名義の多さにもそのまま現れています。
数字で見るNas
1994年以降、17枚のスタジオアルバムを発表しており、そのうち10枚がアメリカ国内でゴールド/プラチナ以上の認定を受けています。
グラミー賞では、13回のノミネートを経て、2020年の『King’s Disease』でついに初受賞(第63回・最優秀ラップ・アルバム)。デビューから26年目での初戴冠でした。
デビュー作『Illmatic』は、ヒップホップ専門誌The Sourceから最高評価の「5マイク」を獲得。ローリング・ストーン誌の「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」では44位に選ばれ(2020年版)、翌2021年にはアメリカ議会図書館の国立録音登録簿に「文化的・歴史的に重要な録音」として永久保存が決まりました。
ラッパーとしての評価も一貫して高く、The Sourceの「歴代リリシスト50」で2位(2012年)、About.comの「歴代最高のMC」(2014年)、ビルボードの「歴代最高のラッパー10人」(2015年)に選出されています。
音楽以外では、雑誌Mass Appealの共同経営とレーベルMass Appeal Recordsの設立に関わり、投資会社Queensbridge Venture Partnersを通じたテック投資でも知られます。2018年にはAmazonによるドアベル企業Ringの買収に伴い、投資家として4,000万ドルを受け取りました。
Nasのおすすめ曲・アルバム
それでは、デビュー作から順番におすすめの曲を紹介していきます。17枚すべては追いきれないので、ここではキャリアの節目になった主要作を取り上げます。
1st Album『Illmatic』(1994年)
1994年4月19日リリース。全10曲・約40分という短さで、ヒップホップ史を書き換えてしまったデビュー作です。プロデュースはDJ Premier、Large Professor、Pete Rock、Q-Tip、L.E.S.、そしてNas自身。当時のニューヨークの最高の作り手を一枚に集めた布陣でした。
内容は、クイーンズブリッジ団地での実体験にもとづく物語の連続。Nasが歌詞を書き始めたのは16歳のころだといいます。ビルボード200では12位、初週売上は5万9,000枚と、商業的には期待を下回るスタートでした。ゴールド認定は1996年、プラチナ認定は2001年12月と、評価が売上に追いつくまで時間がかかっています。
それでも批評面では発売直後から絶賛され、The Sourceは最高評価の5マイクを与えました。「派手さを一切足さず、書く力だけで勝負した作品」という意味で、いまも入門の一枚目に推される名盤です。
『N.Y. State of Mind』
プロデュースはDJ Premier。ジョー・チェンバースやドナルド・バードのジャズをサンプリングし、Kool & the Gangの「N.T.」のドラムブレイクを敷いた、緊張感だけで成立しているトラックです。
「I don’t know how to start this shit(この曲をどう始めればいいか分からない)」と呟いてから、そのまま2ヴァースを走り切る構成。危険と隣り合わせの街の描写を、視点を切り替えながら積み上げていきます。Nasのラップの何がすごいのかを1曲で理解したいなら、まずこれです。
『The World Is Yours』
1994年5月にシングルとしてリリース。プロデュースはPete Rockで、フックを歌っているのも本人です。ビルボードのホット・ラップ・シングルで13位を記録しました。
タイトルは映画『スカーフェイス』へのオマージュ。アーマッド・ジャマルのピアノを軸にした穏やかなループの上で、「この世界はお前のものだ」と自分に言い聞かせるような曲です。のちにJay-Zが「Dead Presidents」でこの曲のフレーズをサンプリングしており、そこから2人の因縁も始まっています。
『It Ain’t Hard to Tell』
アルバムのラストを飾る曲で、2枚目のシングル。プロデュースはLarge Professorで、マイケル・ジャクソンの『Human Nature』(1983年)をサンプリングしています。ビルボードのシングルチャートでは91位でした。
あの滑らかなループの上で、韻の置き方だけをひたすら見せつけていく1曲。Pitchforkの「90年代のベスト・トラック200」では28位に選ばれています。1991年に録音されたデモ版は「Nas Will Prevail」というタイトルで、こちらは1分半ほど長く、より落ち着いたビートでした。
収録曲
- The Genesis
- N.Y. State of Mind
- Life's a Bitch (featuring AZ)
- The World Is Yours
- Halftime
- Memory Lane (Sittin' in da Park)
- One Love
- One Time 4 Your Mind
- Represent
- It Ain't Hard to Tell
2nd Album『It Was Written』(1996年)
1996年7月2日リリース。『Illmatic』の売上が期待を下回ったことを受け、Trackmastersを主軸に据えて磨き上げたサウンドへ舵を切った2作目です。
打ち出したのは、マフィア映画的な世界観を歌う「マフィオソ・ラップ」。Nasは「Nas Escobar」を名乗り、デビュー作の生々しさとは正反対の、豪奢で映画的な質感を選びました。当時のコアなファンからは賛否がありましたが、この路線がのちのヒップホップに与えた影響は大きいものでした。
初週27万枚を売り上げ、ビルボード200で初登場1位。3×プラチナに認定され、Nasのアルバムとしては最大のセールスを記録しています。2024年にはビルボードの「歴代最高のラップ・アルバム100」にも選ばれました。
『If I Ruled the World (Imagine That)』
Lauryn Hillを迎えた先行シングル。Kurtis Blowの1985年の同名曲を土台に、WhodiniのビートをサンプリングしたTrackmastersのプロデュースです。ビルボードのシングルチャートで53位、8カ国でトップ10入りし、第39回グラミー賞では最優秀ラップ・ソロ・パフォーマンスにノミネートされました。
Lauryn HillにとってはFugees以外での初めての参加曲。「もし俺が世界を支配していたら」という空想を並べていく内容で、Hype Williams監督による大予算のミュージックビデオがNasを一気にメインストリームへ押し出しました。2021年6月、彼のシングルとして初めてプラチナ認定を受けています。
『Street Dreams』
2枚目のシングル。ユーリズミックスの『Sweet Dreams (Are Made of This)』を引用したフックが強烈で、ビルボードのシングルチャートで22位を記録。Nasにとって初のトップ40ヒットになりました。
ミュージックビデオはこちらもHype Williams監督で、マーティン・スコセッシの映画『カジノ』を意識した内容。ラスベガスで撮影され、同作の出演者フランク・ヴィンセントもカメオ出演しています。少し後に発表されたリミックスにはR. Kellyが参加しました。
収録曲
- Album Intro
- The Message
- Street Dreams
- I Gave You Power
- Watch Dem Niggas (featuring Foxy Brown)
- Take It in Blood
- Nas Is Coming (featuring Dr. Dre)
- Affirmative Action (featuring The Firm)
- The Set Up (featuring Havoc)
- Black Girl Lost (featuring Joel "JoJo" Hailey)
- Suspect
- Shootouts
- Live Nigga Rap (featuring Mobb Deep)
- If I Ruled the World (Imagine That) (featuring Lauryn Hill)
3rd Album『I Am…』(1999年)
1999年4月6日リリース。もともとは1作目と2作目のスタイルを統合した2枚組として構想されていましたが、収録予定だった曲がMP3としてインターネットに流出。急いで新曲を録り直し、1枚組として発表されました。流出をきっかけに、同じ1999年内に『Nastradamus』も出すことになります。
内容は、名声、ラップ業界、アメリカの都市生活、そしてクイーンズブリッジでの少年時代への省察。客演はPuff Daddy、Scarface、DMX、Aaliyahという豪華な布陣です。
初週47万枚超でビルボード200の1位を獲得し、のちに2×プラチナ認定。『It Was Written』に次ぐセールスを記録しました。ただし批評は分かれ、ここから「商業的になりすぎたのではないか」という声が強まっていきます。
『Nas Is Like』
先行シングルで、DJ Premierとの6度目のタッグ作。刻まれたストリングスのサンプルの上に、自慢と内省を交互に置いていく構成です。
『It Was Written』やThe Firmでのポップ寄りのシングルから一転、デビュー作の質感に戻ってきた曲として批評家に歓迎されました。「Nasはこういうものだ」と自己定義するタイトルどおり、彼の本領がどこにあるかを示した1曲です。
『Hate Me Now』
Puff Daddyを迎えた2枚目のシングル。カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』をサンプリングした、大仰きわまりないトラックです。XXL誌の「90年代のベスト・ソング250」では119位に選ばれました。
「妬むなら妬めばいい」と言い切る内容で、ミュージックビデオも徹底して大袈裟。批判を燃料にして押し切るタイプの曲で、この時期のNasが背負っていた重圧の裏返しとしても聴けます。
収録曲
- Album Intro
- N.Y. State of Mind Pt. II
- Hate Me Now (featuring Puff Daddy)
- Small World
- Favor for a Favor (featuring Scarface)
- We Will Survive
- Ghetto Prisoners
- You Won't See Me Tonight (featuring Aaliyah)
- I Want to Talk to You
- Dr. Knockboot
- Life Is What You Make It (featuring DMX)
- Big Things
- Nas Is Like
- K-I-SS-I-N-G
- Money Is My Bitch
- Undying Love
5th Album『Stillmatic』(2001年)
2001年12月18日リリース。前作『Nastradamus』(1999年)が批評的に失敗と受け止められ、キャリアが崖に立っていた時期の作品です。タイトルはもちろん『Illmatic』を踏まえたもので、「まだやれる」という宣言そのものでした。
内容も、前2作のギャングスタ路線から一転。ゲトーでの生活、アメリカの政治、そしてJay-Zとの抗争といった主題を、デビュー作に近い社会的・哲学的な視点で扱っています。
初週34万2,600枚でビルボード200の8位。最終的にアメリカ国内で200万枚を超え、プラチナ認定を受けました。批評・商業の両面で成功し、Nasのキャリアを立て直した一枚として位置づけられています。
『Got Ur Self a Gun』
2枚目のシングル。プロデュースはMegahertzで、ドラマ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』の主題歌、アラバマ3の『Woke Up This Morning』をサンプリングしています。ビルボードのシングルチャートでは87位でした。
あの独特のスライドギターがそのままループになっている、一度聴くと忘れられないトラック。ミュージックビデオでは教会の告解室に入るNasが描かれ、The Notorious B.I.G.と2Pacへの敬意も表現されています。
『One Mic』
2002年4月16日にリリースされた3枚目のシングル。ビルボードのシングルチャートで43位を記録し、彼にとって3曲目のトップ50ヒットになりました。
ささやくような静かな出だしから、ヴァースの終わりにかけて叫びまで一気に上がり、また静けさに戻る——その振幅の設計が圧倒的な曲です。「必要なのはマイク1本だけ」というテーマそのものを、曲の構造で証明してしまっています。Nasの代表曲を1つ挙げるなら、これを推す人も少なくありません。
収録曲
- Stillmatic (The Intro)
- Ether
- Got Ur Self a Gun
- Smokin'
- You're da Man
- Rewind
- One Mic
- 2nd Childhood
- Destroy & Rebuild
- The Flyest (featuring AZ)
- Rule (featuring Amerie)
- My Country (featuring Millennium Thug)
- What Goes Around (featuring Keon Bryce)
- Every Ghetto (Bonus Track) (featuring Blitz the Ambassador)
6th Album『God’s Son』(2002年)
2002年12月13日リリース。2002年初めに母ファニー・アンを亡くしたことが、この作品の出発点になっています。宗教、暴力、喪失、贖罪といった主題を扱い、批評家からは「Nasのもっとも個人的な作品」と評されました。
プロデュースはSalaam Remi、Chucky Thompson、Ron Browz、The Alchemist、そしてEminemまで参加。客演にはAlicia Keys、Kelis、さらに2Pacの未発表音源も使われています。ハードコアなヒップホップに、ソウルとジャズの要素が溶け込んだサウンドです。
初週15万6,000枚でビルボード200の18位という数字自体は控えめですが、シングル3曲がヒットし、2003年1月にはプラチナ認定。前作からの流れで、批評的な評価をさらに押し上げた作品になりました。
『Made You Look』
先行シングル。インクレディブル・ボンゴ・バンドの『Apache』を大胆に使ったSalaam Remiのトラックで、Nasのキャリアでも上位に入るヒットになりました。
Jay-Zとの抗争と『Stillmatic』を経たあと、「複雑なリリシズムとオールドスクールな質感」という方向性を確定させた重要な曲です。同じビートはSalaam Remiプロデュースで、Amy Winehouseのデビュー作『Frank』(2003年)収録の『In My Bed』にも使われています。公式リミックスにはJadakissとLudacrisが参加しました。
『I Can』
2003年2月11日に国際リリースされたシングル。ビルボードのシングルチャートで12位まで上がり、Nasの最大のヒット曲のひとつになりました。プロデュースはSalaam Remiです。
ベートーヴェンの『エリーゼのために』と、ハニー・ドリッパーズの『Impeach the President』のドラムブレイクを組み合わせたトラック。子どもたちに「薬物に手を出さず、夢を追え」と語りかける内容で、フックでは実際に子どもの声が掛け合いに参加します。ハードコアなラッパーがここまで直球の啓発ソングを書いたという点でも異例の1曲です。
収録曲
- Get Down
- The Cross
- Made You Look
- Last Real Nigga Alive
- Zone Out (featuring Bravehearts)
- Hey Nas (featuring Kelis and Claudette Ortiz)
- I Can
- Book of Rhymes
- Thugz Mansion (N.Y.) (featuring 2Pac and J. Phoenix)
- Mastermind
- Warrior Song (featuring Alicia Keys)
- Revolutionary Warfare (featuring Lake)
- Dance
- Heaven (featuring Jully Black and Saukrates)
10th Album『Life Is Good』(2012年)
2012年7月13日リリース。シンガーのKelisとの離婚を経て書かれた作品で、ジャケットにはKelisが実際に着たグリーンのウェディングドレスが写っています。Nas自身、この作品をマーヴィン・ゲイが離婚をきっかけに作った『Here, My Dear』(1978年)になぞらえています。
プロデュースはNo I.D.とSalaam Remi。オーケストラの要素とブーンバップ、オールドスクールのサンプルを織り込み、80年代のヒップホップの空気を意識した音作りになっています。歌詞の主題は郷愁と、大人になること。
客演はLarge Professor、Rick Ross、Mary J. Blige、Miguel、そして故人となったAmy Winehouseの未発表音源まで。ビルボード200で初登場1位を獲得し、批評家からも広く絶賛されました。第55回グラミー賞では最優秀ラップ・アルバムにノミネートされています。
『Nasty』
2011年8月9日に配信された先行シングル。プロデュースは長年の相棒Salaam Remi。ローリング・ストーン誌の「2011年のベスト・シングル50」で37位に選ばれました。
フックらしいフックをほとんど置かず、ひたすらラップだけで押し切る3分弱。ブランクを感じさせないどころか、腕がさらに上がっていることを見せつけた復帰宣言のような曲です。2012年の映画『プロジェクトX』のサウンドトラックにも使われました。
『Daughters』
2012年7月17日リリースの3枚目のシングル。娘デスティニー・ジョーンズの成長についての省察として書かれた曲で、アルバムのために最初に録音された曲のひとつです。プロデュースはNo I.D.。
娘の問題行動を語りながら、同時に自分の親としての振る舞いを厳しく振り返る内容。強がらずに戸惑いをそのまま書いてしまうところが、この曲の強さです。第55回グラミー賞では最優秀ラップ・パフォーマンスと最優秀ラップ・ソングの2部門にノミネートされました。
収録曲
- No Introduction
- Loco-Motive (featuring Large Professor)
- A Queens Story
- Accident Murderers (featuring Rick Ross)
- Daughters
- Reach Out (featuring Mary J. Blige)
- World's an Addiction (featuring Anthony Hamilton)
- Summer on Smash (featuring Miguel and Swizz Beatz)
- You Wouldn't Understand (featuring Victoria Monét)
- Back When
- The Don
- Stay
- Cherry Wine (featuring Amy Winehouse)
- Bye Baby
12th Album『King’s Disease』(2020年)
2020年8月21日、自身が共同設立に関わったMass Appeal Recordsからリリース。プロデューサーのHit-Boyが全面的に指揮を執った作品で、賛否の分かれた前作『Nasir』(2018年)からの完全な立て直しと受け止められました。
客演はCharlie Wilson、Big Sean、Don Toliver、Lil Durk、Anderson .Paak、Fivio Foreign、A$AP Ferg。さらに1990年代にNasが結成したスーパーグループThe Firmが再集結しています。
そして第63回グラミー賞で最優秀ラップ・アルバムを受賞。13回のノミネートを経ての、Nas初のグラミー受賞でした。以降『King’s Disease II』(2021年)、『Magic』(2021年)、『King’s Disease III』(2022年)、『Magic 2』『Magic 3』(2023年)と、すべてHit-Boyが全面プロデュースする作品を立て続けに発表し、いずれも高い評価を得ています。2025年にはDJ Premierとの共作アルバムも実現しました。
『Ultra Black』
2020年8月14日にリリースされた先行シングル。プロデューサーのHit-Boy自身も参加しています。
「システムに抗いながら、それでも誇りを持って生き抜く」ことを歌った曲。デビューから26年が経ったベテランが、若手と同じ土俵で最新のビートに乗り、それでも言葉の強度で勝ってしまっている——それを証明したのがこの曲です。初のグラミー受賞につながる流れは、ここから始まりました。
『Til the War Is Won』
Lil Durkを迎えた曲。世代の離れた2人が、暴力と貧困が続く現実について同じ目線で語り合う構成になっています。
Nasがベテランとして「昔はよかった」と説教するのではなく、いま起きていることを一緒に見ている。それがHit-Boy期の作品群が支持された理由のひとつでしょう。ゆったりしたソウルフルなトラックも聴きどころです。
収録曲
- King's Disease
- Blue Benz
- Car #85 (featuring Charlie Wilson)
- Ultra Black (featuring Hit-Boy)
- 27 Summers
- Replace Me (featuring Big Sean and Don Toliver)
- Til the War Is Won (featuring Lil Durk)
- All Bad (featuring Anderson .Paak)
- The Definition (featuring Brucie B)
- Full Circle (featuring the Firm)
- 10 Points
- The Cure
- Spicy (bonus track) (featuring Fivio Foreign and ASAP Ferg)
Jay-Zとの抗争と和解
Nasを語るうえで避けられないのが、Jay-Zとの抗争です。ヒップホップ史でもっとも有名なビーフのひとつで、2001年から2005年まで続きました。
発端は1996年。Jay-Zがプロデューサーのスキ・ビーツに依頼し、Nasの『The World Is Yours』のフレーズを大きくサンプリングした曲『Dead Presidents』を作ります。そこから両者は数年にわたって、名前を出さない当てこすりの応酬を続けました。
決裂が表面化したのは2001年のサマー・ジャム。Jay-Zがステージ上でNasを名指しし、のちに『Takeover』として知られる曲を披露。パフォーマンスを「Nasに聞いてみろよ、あいつはHovとやり合いたくないってさ」という言葉で締めました。『Takeover』は同年のアルバム『The Blueprint』に収録されます。
Nasの回答が、『Stillmatic』の2曲目に置かれた『Ether』でした。ローリング・ストーン誌はこの曲を「クラシック」かつ「もっとも荒々しい」ディス・トラックのひとつと評しています。以後、英語圏では「ether(する)」がディスで相手を完全に打ち負かすことを指す動詞として使われるようになりました。それだけの影響力を持った1曲です。
『Ether』(ライブ映像)
スタジオ版のミュージックビデオは制作されていないため、ここでは公式のライブ映像を紹介します。観客が歌詞を完全に覚えて叫び返しているのが、この曲の立ち位置をそのまま物語っています。
この抗争にはもうひとつの側面もありました。2002年のサマー・ジャムでは、Jay-Zを模した人形の吊るし刑を背後で演出しながら『Ether』を披露する計画があったとされ、Nasは出演者リストから外されています。抗争は音楽の外にまで及んでいました。
そして2005年10月、Jay-Zの「I Declare War」コンサートにNasがサプライズ登場します。Jay-Zが「これは『宣戦布告』より大きなことだ。行こうぜ、Esco!」と観客に告げ、2人が並んで披露したのは『Dead Presidents』——つまり、この因縁の出発点になった曲でした。抗争はここで公式に終結します。翌2006年、NasはJay-Zが社長を務めていたDef Jam Recordingsと契約しました。
結果として、この抗争はNasにとって最良の作品を引き出す装置になりました。『Stillmatic』『God’s Son』『Street’s Disciple』と続く時期の充実は、明らかに「負けられない」状況が生んだものです。ディス曲が単なる悪口ではなく、作品の質を競う場になり得ることを示した例として、いまも参照され続けています。
まとめ|まずはこの3曲から
Nasは、ヒップホップにおける「書く力」の基準を作った人です。声の派手さやフックの強さではなく、言葉の選び方と物語の組み立てだけで30年以上頂点近くに居続けてきました。
最初に聴くなら、この3曲をおすすめします。
- 『N.Y. State of Mind』(1994年)… Nasのラップの何がすごいのかが、いちばん短時間で分かる曲。
- 『If I Ruled the World (Imagine That)』(1996年)… Lauryn Hillとの名曲。ヒップホップに馴染みがなくても入りやすい1曲。
- 『One Mic』(2001年)… 静と動の振幅が圧倒的。1曲の構成力で殴ってくるタイプの代表例。
アルバムから入るなら、迷わず『Illmatic』(1994年)です。全10曲・約40分で、余計なものが一切入っていません。そこが気に入ったら『Stillmatic』(2001年)へ、逆にもっとポップな質感が好みなら『It Was Written』(1996年)へ。近年の作品を聴きたい場合は、グラミー受賞作の『King’s Disease』(2020年)から遡るのが分かりやすいはずです。
Nasの曲はサンプリングの元ネタを知るとさらに面白くなります。関連記事もあわせてどうぞ。


